日森洋行は日本から輸入した瀬戸物や茶器を販売し、一方オークションで買い付けた品物を日本へ輸出していました。
それが10年のちには綿花の輸入、日本雑貨の輸出などで手広く営業する、物流センターに成長していたのです。
微賎より身を起し、刻苦精励、困難な環境のなかで成功した数少ない先駆者です。
一方、宮野、立林の両雑貨店は、1、2年前に開店したばかりの小店で、まだ大きな取引は無理なようだ、と「報告」は記していました。
その他、日本の最初の職業写真家となった長崎県出身の上野彦馬が、当時ここで写真館を開いていたことは興味深いですね。
その他とくに目につくのが「宿屋」とか「貸座敷業」と称するものです。
「宿屋」が5軒、「貸座敷業」が8、9軒もありました。
「宿屋」といっても真面目に営業していた1、2軒のほかは、実は現在のラブ・ホテルで、当時は「密航者」とよばれていた、そのような賎業婦に関係する営業を行なっていたのが「宿屋」です。
「貸座敷業」というのもまた各戸数人の抱え女をもって、その方面の営みをさせていた淫売屋でした。
これに類似する営業を行なっていたのが飲食店、カフェーと称するもので、こうみてくると、香港在住日本人の大半は多くは外人相手のいわゆるセックス産業に関わっていたのです。
昭和62年に封切られた今村昌平監督の映画「女衝」の舞台になったのが、明治30年代の香港で、現在のわたしたちの眼をそむけさせるような、当時の貸座敷業の実状をよく描いていました。
・・・しかし、それが香港のすべてではなかったのです。
日本商品の市場開拓をめざして真面目に努力していた日本商人がいました。
彼らは真面目に努力してもなかなか容易に中国商人が永年築き上げてきた商業ネットワークを突破できないで困っていました。
どうすれば中国市場に入ってゆけるのか・・・。
鈴木領事は着任後まもなく、香港における日本人の現状とその発展不振の理由をあげ、意見書を外務省へ提出しました。
これを要約すると・・・
香港に輸入せられる日本品は石炭をはじめ、水産物、陶器、漆器、薬種、雑貨など、その年額およそ3~400万円以上に達する。
にもかかわらず、これらの商品は殆ど清商の手によって輸入せられ、かつ販売されています。
このように日本商人が清商に圧倒されている原因は、ひとつは清商の団結力とその目前の利益に拘泥しない商法に勝てない・・・。
このような内容のものでした。